モノ申す

 14年末の紅白歌合戦で31年ぶり出場のサザンオールスターズが波紋を広げた。ライブ会場から映し出された映像でちょび髭をつけた桑田佳祐チャップリンの「独裁者」の身振り手振りで登場し、その後披露した「ピースとハイライト」で見事に安部政権を揶揄したのだ。

 その後しばらく・・・多分1年以上サザンと桑田はマスコミに現れなかったと思う・・?。自粛かソンタクかわからないが(「忖度」という言葉は元来美徳を表すはずだが、安倍さんにまつわる例の件以来、身の安全を図り目上に取り入ろうとする恥知らずな`忖度モドキ’の方で使われている。マスコミによるこの用語の用い方そのものがソンタクなのだろう) 。

 

 この衝撃的な出来事は、今ではまるで何事も無かったかのようだ。

 

 

 俳優で参院議員の山本太郎は、2013/10園遊会での天皇への直訴(自衛隊の海外派遣の件だったか)で話題を集めたが、戦前だったら切り捨て御免?だなどという意見も出てそれはそれで興味深かった。

 2年後彼は、朝日新聞紙上で「みんなが言うべきことを言わず、長いものに巻かれ保身と目先の利益ばかりに汲々とした結果が・・・この世の中」と言っている。

 ネットでは彼の出自に関するものが出回っているが、それを書いた人たちはまさに「長いものに・・・」という生き方に無自覚なのだろう。それ故彼の発言や行動がシャクに障るのだろうか。

 たまたま深夜テレビの国会委員会質疑で彼が質問に立っていた。率直すぎて逆に物議を呼んでいるのが若々しく格好良かった。こういうのをゴールデンタイムに流したら視聴率が取れるだろうに・・。

 彼にはいつまでも「ワル目立ち」のこのスタイルを通して欲しい。彼がいつか政権スタッフにでもなればこうもいかないだろうが・・。

 

 

 2011年、カメラ・光学機器メーカー・オリンパスは自社の不正経理を社内で追及したマイケル・ウッドフォード社長を解任した。ウ社長は雑誌で疑惑を知り社内調査に乗り出したが、この情報源はオリンパスの社員だった。

 旧経営陣3人は、12年2月、粉飾決算の疑いで逮捕された。

 

 これに遡る06年、オリンパス社員浜田正晴は会社の道義上の間違いを幹部に進言したが何も変わらず。次にコンプライアンス窓口に通報したところ、畑違いの閑職に追いやられ数々の冷遇を受けた。労組も見て見ぬ振り。

 08年に提訴12年に最高裁で勝訴。

 

 1999年英国で公益開示法が施行され、日本でも06年公益通報者保護法が施行されたのだが・・・。

 

 ・・・これではいけないと思っている社員も少なからずいる。そんな声を多くの会社が受け付けないのは、ムラ社会だから。それを認めると今度は自分がやられる。裏切り者扱いされ地位まで奪われる。保身の集積が会社を腐らせる。・・・組織は臭いものに蓋をする。外部の第三者機関に通報し通報者も守る体制を国が整えるしかない。内部通報では何も変わらない。それが私が学んだこと・・、と浜田は言う。

賃金が上がらない

 以前テレビ東京モーニングサテライトで「人手不足なのに賃金が上がらない」のテーマで、専門家やプロといった人たちがあれやこれや語り、大抵は「よく分からない」で終わった気がするが、いつも何やらむず痒い気分になった。

 

  次に羅列する要因が賃金に与える影響について、マスコミに出る「専門家」や「プロ」から納得のいく説明を聞いたことがない。

 意図的に避けているようにも思える。

 

 多くの大企業が史上最高益という状況で非正規労働者が雇用全体の40%を超え(‘15年)、その数2千万人を超えた(’17年)

 

 「タックスヘイブン逃げていく税金」志賀櫻の評者(佐々木俊尚)によると、世界経済の規模は7千兆円で、ある推計ではタックスヘイブンに秘匿されているお金は2千兆~3千兆円という。

 

 立正大学の浦野広明(しんぶん赤旗日曜版‘17/7/23)によると、大企業の内部留保は前年度より7%増え400兆円超、大企業はその金で主に子会社・関連会社の株式の保有を膨らませているが、そこから入る配当等の大部分が非課税であるという。外国子会社からのそれも95%は非課税という。

 実質的に大企業優遇税制となっている。

 

 同日付しんぶん赤旗日曜版で、元三菱UFJモルガン・スタンレー証券チーフエコノミスト・現法政大学教授の水野和夫は、「大企業の内部留保の半分は、働いている人からかすめ取ったお金」と述べている、・・・・。

 

 「世界の権力者が寵愛した銀行ータックスヘイブンの秘密を暴露した行員の告白」の評者諸富徹(京大・経済学)によれば、EU法令すら脱税を合法化し、銀行はそれを活用したサービスで儲けていた、という。

 

 ‘14/4/1NHKBS世界のドキュメンタリー「租税回避・1兆€との闘い」で、ドイツ財務相ショイブレは、グローバル企業のタックスヘイブン利用について

 「経営者は利益を上げなければ背任行為として訴えられることもある」と、これを擁護するコメントをしている。

 ギリシャから端を発した€危機の折り、歯に衣着せぬ物言いで名をはせた男も、大層歯切れが悪い。

 

 これとよく似た話が・・・。

 

 同じ番組’13年米「ウォール街アンタッチャブル・・・金融危機の責任者はどこだ」。

 ‘08年金融危機後、ウォール街の経営陣が詐欺や犯罪行為で誰も訴追されなかった。当時の刑事局担当司法次官補だったラニー・ブルアーは、NY州弁護士会の講演で  

 「数万人の雇用が脅かされている。訴訟が大手金融機関に与える影響を考えると夜も眠れない」と発言。

 

 「EUの金庫番」ドイツ財務相が租税逃れの問題よりも大企業の経営を優先、犯罪行為を追求し訴追することが使命であるはずの司法の実質トップが金融機関への影響を優先する、という事実。

 

 西側先進国がソ連と対峙していた頃、いわゆる冷戦時代、資本主義は福祉などを充実させていたが、ソ連崩壊後「お化粧」を脱ぎ捨て本性を露わにした、という。

 

 ITとグローバル化がそれに拍車をかけた。

 グローバルな総資本対、総労働・・・ではなく個別でバラバラな労働者たち。

 

 オフショア(課税優遇地)を求めて資本が瞬時に移動、国を超えているからガバナンスがまるで効かない。

 

 そして、大抵「グローバル企業はそうしないとグローバル競争に負ける」で議論は終わる。大企業・国・マスコミのグローバルコングロマリットによる巨大詐欺、誤魔化し。被害者は大多数の一般国民。

 

 実は一番煽りを食っているのは貧困国(タックスヘイブン問題の第一人者ジョン・クリステンセン)、・・・という。

 

 現在、資本主義の歪みがグローバル化によって最大化されている。

丁半博打

 個人が自宅PCを使って相場で儲け続けること、それを仕事とするのは並大抵ではない。

 テニスを始めたばかりの人が錦織圭に勝つことはない。また、中学生がイチロー並にメジャーリーグで活躍することもあり得ない。

 ところが、相場の世界ではそんな非常識がまかり通ることがある。

「たまたま」がよくある世界。あるいは勝ちやすい環境というのもある。

 

 金融市場(相場)というのは不確定要素が多すぎて、スポーツなどよりもはるかにギャンブルに近い。

 

 相場に徹底的な科学的合理性を追求した時代もあった。航空工学等の専門家が金融工学などというものを編み出したとかで、こぞってウォールストリートに現れた。

 リーマンショックでは、それが禍根となった。問題となったMBS(資産担保証券)などは金融工学に依ったもの。

 1990年代後半、二人のノーベル経済学賞受賞者を擁した巨大ファンドLTCMは、巨額の債務を抱えて敢え無く破産、金融危機を招いた。

 相場に科学的合理性を持ち込むことには、程度があるようだ。

 

 デリバティブ(金融派生商品)の代表的なものは株式や通貨の先物だが、オプションというものもある。

 例えば、$¥が今後一か月で118-122¥の中にあれば500万円を貰える、117台や122¥を超えると逆に500万円を支払うというダブルノータッチというオプション。

 このゲームにおけるポーカーの親は金融機関、賭け手はヘッジファンド(HF)等だ。その金融機関はリスクヘッジのために、負けた場合のオプションもどこかでやっているかも知れない。そうすれば手数料だけは確実に入る。

 こういったオプションは普通公表されないが、噂や思惑で世間に知れることもある。するとどういうが起こるか?。短期投機筋はこれのストップをつけようと118¥近くまで下げた処でさらに下げさせようと大量に売り注文を出す。賭け手のHFはこれに対抗して買い支える。

 このように、日々相手のストップを付けようと、巨大ファンド同士の戦いが繰り広げられる。また、その動きを見てコバンザメのように参入する者もいる。

 ストップが付く水準には、買い手の大量の売り手仕舞いの注文が並ぶ。それがヒットすると一気に相場が動いて儲けが大きくなる。相手のストップ、つまり損失がこちらの儲けというわけだ。

 ゲームに相応しい単純なルールだ。

 これは、まるで丁半博打!!。・・ポーカー?。・・麻雀?。

 

 世界中の金融市場では、現物の他にこのようなデリバティブやオプションで溢れている。何のためにこんなものがあるのかというと、もちろん「金儲け」だ。

 ちなみに、世界中の実体経済で流通しているお金の何倍ものマネーが相場の世界に行き交っている。その額、為替市場だけで一日に200兆円という。

 実体経済を大きく揺るがす金融市場の原理が、バクチ・・・!!。

現物のデイトレスイングトレードで利益を上げるのも基本的に変わらない。

 

 相場占星術というものもあり、月の満ち欠けや星の逆行というもので$が売られたり買われたりで膠着相場が動くこともよくある。これは全く自然現象なのか、これを知るトレーダーが動かすのかよく分からないが、その通りになることもならないこともある。50%くらいの確立で当たるのかも知れない。統計など知らないが、印象として・・・。

 仮に45%であっても、十分に信ずるに足る数字だ。

 僕の場合、早朝の散歩で普段挨拶しない人と挨拶を交わして気分が良くなるとその日は儲かり、といったことはよくある。逆に気分が良くないことがあると、トレードを控えるべき日だ。

 

 これは「運気の流れ」と関係しそうだが、雀鬼こと麻雀の名人・桜井章一氏の著作は、アメリカの上級者向け投資のメンタル本よりも役立つような気がする。

 彼の本は投資の専門書として読むべきだろう。

 

 日本の大手銀行でも、外国為替部のチーフはその年の新入社員の目ぼしい人を次々に麻雀に誘うという。そのようにしてディーラーになり今やカリスマとなった人が、マット今井こと衆院議員今井雅人氏だ。

 

 手堅いサラリーマンしか経験のない人間が、いきなりこのような世界に入り、ネット証券の営業の話を真に受けることがどれほど危険なことか!・・。

次々新規参入する個人投資家が後を絶たない世界で、証券会社にとって何人かの顧客が減っても「へ」でもないはず・・。

 

 この5年でもFX業界は大手が次々に様変わりした。彼らもまた利益追求に余念がないのだ。この間、某大手証券のシステム障害で僕が損失を被った時も、向こうは何もしてくれなかった。下っ端のオペレーターが平謝りしてくれただけ。システムが壊れたとかで、税額控除証明も出ない有様だ。

 このような場合に備えて、キャツらは、細かい字で膨大な量の取引規定というものにチェックを入れないとログインできないようにしている。

 僕のような少額の客に冷たいが、ケタが違う大口の顧客であれば、然るべき措置が取られたかも知れない。彼らの行動原理から察するに、・・・。

 

 

高慢と凡庸

 J・オースティンに有名な「高慢と偏見」という作品があるが、今回はそれと関係があるのかないのか?・・。

 

 ウインドウズXPのセキュリティ終了に伴い、昨年2月PCを買い替えた。その際デュアルディスプレイにしたのだが、その一つに不具合があり、最近それが頻繁になったので、買った処へ持ち込んだ。しかし、ディスプレイ部の保証期間が過ぎ、保証書もない。

 デュアルディスプレイとノートパソコンでFX・・?。いかにもそれらしく恰好をつけたかったのだが、そんなものはもういらないと、ディスプレイが一台になって気づいた。

 テニス始めたら、まず高価なラケットとウェアを買う?。それでプロになれるなら、テニス関連業界はもっと繁盛するハズだろう。

 仏作ってナントヤラの「魂」の方は、どうする?、というモンダイ・・。

  

 それで、やっと本題・・・。

 

 Yという旧知の人物から℡があって、FXをやるため30万円で6画面のPC装置を買うと言う。某大手ネット証券はこれを年間100セット売っていると・・。ついては僕の処にデュアルディスプレイ等を見に来るという。

 彼の今年の年賀状に「FX教えて」とあったから、僕のBlogとメルアドを返事に載せておいた。それでBlogを見たかと聞けば、見ていないと言う。

 

 正直、開いた口がふさがらない。

 「PCは7~8万円で十分、それよりも、残りの金で勉強の方に回した方がいい」と言っても、「勉強ならしている。ユーロ圏の問題は・・、アメリカのなんやらは、・・」と言う。「そんなものは掃いて捨てるほどネットに書いてある。どうでもいいことや」だんだん腹が立ってきた。

 彼は、ヘッジファンドが使うような装置を買うことに前のめりで、こちらの話を聞く気がないらしい。相当ひどいことを言いそうになる前に、僕は適当に電話を切り上げた。

 大手ネット証券の営業の言う通りにやって儲けて舞い上がっているのだろうが、それでは次もうまくいくとは限らない、それどころか・・。

 

 かつて、彼同様、僕と同業の勤め人だった人が、小泉さんの郵政相場の時に大儲けしたとかで、僕のところにやってきて散々自慢した。

僕は「シロウトがたまたま当てただけ。今にえらい目に合う」と言ったのだが、相手は「フン」といった様子で帰って行った。その後は・・・書くのも憚られるような結果が・・・。

 この辺りの事情(理由)については、以前記した。http://blog.livedoor.jp/nh74/archives/2014-10-21.html

  

 二人に共通しているのは「高慢の鎧を着た凡庸さ」。

 高慢と凡庸というのはニワトリと卵の関係というか・・。凡庸だから高慢にならないとやっていけない。もともとポイントを外して生きているから、頑張っている割には余計な世渡りのアカばかりがついて大したことないままで、ますます高慢に・・というアリ地獄。別に凡庸が悪いわけではないが、自己認識がないと・・というコト。

  

 それでは、お前はどうなのかと自分に問うてみると、サラリーマン時代も今も、僕は確かに凡庸・・いや、それ以下です。

 主夫になって10年、今も自分の凡庸さにうんざりしている。

 他人のことは、た易く語れても自分のことになると、・・・。

  ・・・高慢で凡庸、それは私のことです。

ロング・グッドバイ

 村上春樹の新訳、レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」。僕は、これを同名のNHK土曜ドラマで知った。

 舞台は戦後間もない頃の東京。浅野忠信演ずる私立探偵がやたら格好良くて、長いドラマだったが、繰り返し見た。

 

 私立探偵・増沢磐二は、事件の黒幕と思しき大物に招かれ彼の部屋で対峙する。とりわけ印象的で、考えさせられる場面だ。

 その大物・原田平蔵が柄本明(彼も良かった)。原田は言い放つ。

「戦争によって、国民の価値観、礼節すべて失われた。国民の空白を埋めるのはテレビだ。国民の頭を空っぽにして、・・・」

増沢「莫大な金を遣ってマスコミの口を封じたのか?。」

原田「歴史に選ばれた人間は目的のために手段を択ばないのだ。」

増沢「飢えた子どもに酒をやって酔わせるようなものだ。」

原田「うるせえんだよ、お前は。ご立派なことを並べて、国民を食わせられるのか?」。

 この後、磐二は平蔵の娘に言う。

「父上は至極真っ当な人でしたよ」。

 

 昭和初頭の日本が直面したのは、世界史の壮絶なうねりの最前線。自らを見失った日本は、うねりに巻き込まれ無謀な戦争に突入した。

 戦争から間もない平蔵のこの言葉は、「戦後民主主義」に対する現実主義とみるべきだろう。磐二の「真っ当」はもちろんシニカルだが、歴史はいつも二者択一を迫る。英米の最先端の?民主主義も2大政党・・リベラルと保守のバランスの上に成り立っている。

 その後、米ソの冷戦が機能し、核兵器のパワーバランスの上に危うい平和が保たれた。1960年台は、リベラリズムカウンターカルチャーの全盛。しかし、マルクス主義を土台とした理想主義・・・大学紛争や民衆運動は、70年台には姿を消した。少なくとも日本においては。

 80年初頭、米英は低迷から立ち直り、サッチャリズム新自由主義が人々を経済成長路線へ連れ戻した。

 「ご立派な理想」は雲散霧消し、日本は再び「食う」ために走り出したが、また波に呑まれる。始めの大波で空中高く舞い上がり、次の波で海底に沈んだ。

 

 先ほどの場面を、チャンドラーの原作はどのように描いているのか気になって、本を買いに行った。旧訳の方がハードボイルドの空気感が伝わるという意見もあったので、新訳と旧訳「長いお別れ」をパラパラと読み比べた。やはりハルキ訳の方が日本語がこなれていて、臨場感があった。

 旧訳は恰好いいかも知れないが、硬質でイマイチ判然としない。

 

 それで、今読みかけているところ・・・。なにせ、読みかけている本が13冊あるもんで・・・。

村上春樹

 整理したスクラップのシートを眺めているうちに、村上春樹のインタビュー集「夢を見るために毎朝僕は・・」を読みたくなって買った。「1Q84」等彼の最近の作品は読んでいない。

 

 僕にとって村上春樹は、何といっても「羊をめぐる冒険」だ。学生時代の孤独な深夜に、街のカフェのような処で一人読んだ。何となくこの小説はこんなふうにして読むのがいいだろう、という感じで。僕は本来そんな処で本を読むようなことはできないタチなのだが、その時の気分が居心地の悪さに勝っていたのだろう。

 

 突然「僕」を訪ねてきた奇妙な黒服の男がvery Cool、いかにも現代風のエリートビジネスマンといったふうで印象的だった。当時僕はそんな人に憧れていたのかも知れない。漠然とした物語世界の中で、彼だけが妙にリアルだった。自分や自分たち以外の者を凡庸と決めつけるようなところなど、ある意味戦後日本の、栄光の1980年台を象徴するような人物なのだろう。当然、彼のような人物は思い切りカリカチュアライズされ滑稽でさえあるのだが、そのような人間を格好いいと思ってしまう僕は何なのだろうか?。

 ともあれ、現実の自分との乖離が大きすぎるのも、当時の僕の状況がうかがえて、ほろ苦い。

 

 一方、主人公「僕」はそれなりに魅力的ではあるのだが、僕には不可解だった。語り手としての客観性という意味では適任だろうが、時にはあまりに非人間的すぎるような気がした。特に「ねじまき鳥」の「僕」なんかは、理解に苦しむ。妻が他の男のもとに走って、あのように終始冷静でいられるか?・・とか、もどかしさも度を越している。

 

 現実の村上春樹が、親しかった出版関係者にひどい仕打ちをされたというようなことがあった。彼はそのことをどこかに書いていたが、そこでも「ねじまき鳥」の「僕」のように、ただただ戸惑っているふうだった。つまりは、そういう人なのだろう。

 しかし、だからといって彼の小説に何か問題があるかというと、そうでもなく、むしろ逆にそれも小説の魅力になっている。そのような個性というのも、一つの才能なのだろう。

 

 まあしかし、「羊をめぐる冒険」に限らず、村上春樹はとってもシュールだ。改めてそう思う。ストーリー自体がそうというだけでなく、日常を扱った部分においても、何かのパロディのように突き放されている。

 

 若いころ、ドストエフスキーの「罪と罰」や「カラマーゾフ」を読んで、どうして日本にはこんなふうな小説がないのかと、本気で(半ば憤りも込めて)思った。思いっきりエンターテインメントだが、文学性も高いといった小説が日本にはあまりないのだ。

 村上春樹は、「夢を見るために・・」でこのあたりのことを語っている。つまりはディケンズスタンダールのテーマをチャンドラーのように書く、ということだろうか。ポイントはユーモアのセンスだという。

 漱石の「猫」は、ユーモアと風刺に満ちているようだが、他の彼の作品ではシリアスになってしまった。「こころ」で主要人物が二人も自殺してしまうのは、シリアスの必然ともいえる。以来、日本において、文学とはしかつめらしく深刻なものという固定観念が巾を利かせることになった。

 「羊をめぐる冒険」で三島由紀夫の例の事件を、「僕」はどうでもいいことのように一蹴してしまうところがある。とてもCoolで象徴的な場面だ。

行き詰まったときに

 30歳の頃所帯を持った。新しい大きなスライド書棚に、新聞記事の切り抜きスクラップを、赤や青の表紙のプラスチックバインダーに挟んで並べた。その頃から相当量の新聞等のスクラップがあったわけだ。  

 その所帯は短い間で消滅してしまったが、スクラップ類は健在で、今は数百枚のA4シートに収まっている。それを毎年暮れの年中行事のように、整理やら処分やらをしていた。それでも、「あの記事は確かあったのに・・」という思いをすることもしばしばで、その都度強い自己嫌悪に襲われた。

 思った時にその記事を出せないのは、集めるだけで活用されないただのゴミ同然!。昨年の暮れ、意を決して徹底的に整理をしようとした。

 不完全なまま年が明け、何とか続けているうちに2月頃から、どこに何があるかを2分から遅くとも5分以内に見つけ出せるような感じになった。5~10分だと、探すのが億劫になる。2~5分なら、少なくとも探そうという気にはなる。

 まあ、とにかく、スクラップがそんなふうになることは、僕にとって画期的だ。

 

 大学生の息子が最近読書に興味を持って大きな本棚を買った。一度それを彼の部屋で見たが、蔵書が実に整然と並んでいた。

 彼が帰郷した折、僕の書棚を覗くのだが、それは見た目ほど整然とはしていない。押入れや廊下の本棚にも同じくらいの本があり、目当ての本がなかなか見つからない。そういうこともあって、一見整理されてはいるが乱雑に置いてあるだけの本をしっかり整理してみた。ついでに400~600枚くらい?あるCDも。

 その結果、マンネリであった僕の音楽生活に変化の兆しが・・。昔よく聴いたアート・ペッパーの50年台やミルト・ジャクソンの「オパスで・・」とか、とても新鮮に響いた。

 本に至っては、もっとずっとエキサイティング!!。谷沢永一の本を目立つところに置いてみて、何となくペラペラ読んでみたくなり、「日本人とユダヤ人」に行きついて、これがとんでもない本であると分かった。「今更・・」という人はかなりの読書家だが、僕は読書家ではない。これについてはまた・・。

 

 昔かじった「臨床心理学」(氏原寛・東山紘久)を再読。東山氏の書いた因幡の白兎のメンタリティについて今回は以前よりも突っ込んで考えることができた。これこそ今現在の僕の課題ではないのか。

 行き詰まった時はともかくも「整理」することが大事だ。

 僕の30代の頃の蹉跌を、今や知恵に変えることができるのか、という思いだ。

 

 アドラー心理学を知ったからユング河合隼雄はお呼びでない、というのはちょっと違うだろう。そんな単純ではない。どちらにも良い点と難しい点がある。そんなものをどこまで生かして、自分の知恵にできるか、ということだろう。

 そういうわけで、河合隼雄の「昔話と日本人の心」を読んでいる。

 日本人というのは、実に厄介なシロモノではないか、外国人とりわけ西洋人から見れば。興味を持つなら面白いのかも知れないが、僕は昔から日本人のメンタリティは好きではないし興味もなかった。殊に避けては通れない「世間」というモノについて、僕は躓き、翻弄されてきた。

 今回はそれについて、少しじっくり考えてみたいと思っている。