村上春樹

 整理したスクラップのシートを眺めているうちに、村上春樹のインタビュー集「夢を見るために毎朝僕は・・」を読みたくなって買った。「1Q84」等彼の最近の作品は読んでいない。

 

 僕にとって村上春樹は、何といっても「羊をめぐる冒険」だ。学生時代の孤独な深夜に、街のカフェのような処で一人読んだ。何となくこの小説はこんなふうにして読むのがいいだろう、という感じで。僕は本来そんな処で本を読むようなことはできないタチなのだが、その時の気分が居心地の悪さに勝っていたのだろう。

 

 突然「僕」を訪ねてきた奇妙な黒服の男がvery Cool、いかにも現代風のエリートビジネスマンといったふうで印象的だった。当時僕はそんな人に憧れていたのかも知れない。漠然とした物語世界の中で、彼だけが妙にリアルだった。自分や自分たち以外の者を凡庸と決めつけるようなところなど、ある意味戦後日本の、栄光の1980年台を象徴するような人物なのだろう。当然、彼のような人物は思い切りカリカチュアライズされ滑稽でさえあるのだが、そのような人間を格好いいと思ってしまう僕は何なのだろうか?。

 ともあれ、現実の自分との乖離が大きすぎるのも、当時の僕の状況がうかがえて、ほろ苦い。

 

 一方、主人公「僕」はそれなりに魅力的ではあるのだが、僕には不可解だった。語り手としての客観性という意味では適任だろうが、時にはあまりに非人間的すぎるような気がした。特に「ねじまき鳥」の「僕」なんかは、理解に苦しむ。妻が他の男のもとに走って、あのように終始冷静でいられるか?・・とか、もどかしさも度を越している。

 

 現実の村上春樹が、親しかった出版関係者にひどい仕打ちをされたというようなことがあった。彼はそのことをどこかに書いていたが、そこでも「ねじまき鳥」の「僕」のように、ただただ戸惑っているふうだった。つまりは、そういう人なのだろう。

 しかし、だからといって彼の小説に何か問題があるかというと、そうでもなく、むしろ逆にそれも小説の魅力になっている。そのような個性というのも、一つの才能なのだろう。

 

 まあしかし、「羊をめぐる冒険」に限らず、村上春樹はとってもシュールだ。改めてそう思う。ストーリー自体がそうというだけでなく、日常を扱った部分においても、何かのパロディのように突き放されている。

 

 若いころ、ドストエフスキーの「罪と罰」や「カラマーゾフ」を読んで、どうして日本にはこんなふうな小説がないのかと、本気で(半ば憤りも込めて)思った。思いっきりエンターテインメントだが、文学性も高いといった小説が日本にはあまりないのだ。

 村上春樹は、「夢を見るために・・」でこのあたりのことを語っている。つまりはディケンズスタンダールのテーマをチャンドラーのように書く、ということだろうか。ポイントはユーモアのセンスだという。

 漱石の「猫」は、ユーモアと風刺に満ちているようだが、他の彼の作品ではシリアスになってしまった。「こころ」で主要人物が二人も自殺してしまうのは、シリアスの必然ともいえる。以来、日本において、文学とはしかつめらしく深刻なものという固定観念が巾を利かせることになった。

 「羊をめぐる冒険」で三島由紀夫の例の事件を、「僕」はどうでもいいことのように一蹴してしまうところがある。とてもCoolで象徴的な場面だ。