行き詰まったときに
30歳の頃所帯を持った。新しい大きなスライド書棚に、新聞記事の切り抜きスクラップを、赤や青の表紙のプラスチックバインダーに挟んで並べた。その頃から相当量の新聞等のスクラップがあったわけだ。
その所帯は短い間で消滅してしまったが、スクラップ類は健在で、今は数百枚のA4シートに収まっている。それを毎年暮れの年中行事のように、整理やら処分やらをしていた。それでも、「あの記事は確かあったのに・・」という思いをすることもしばしばで、その都度強い自己嫌悪に襲われた。
思った時にその記事を出せないのは、集めるだけで活用されないただのゴミ同然!。昨年の暮れ、意を決して徹底的に整理をしようとした。
不完全なまま年が明け、何とか続けているうちに2月頃から、どこに何があるかを2分から遅くとも5分以内に見つけ出せるような感じになった。5~10分だと、探すのが億劫になる。2~5分なら、少なくとも探そうという気にはなる。
まあ、とにかく、スクラップがそんなふうになることは、僕にとって画期的だ。
大学生の息子が最近読書に興味を持って大きな本棚を買った。一度それを彼の部屋で見たが、蔵書が実に整然と並んでいた。
彼が帰郷した折、僕の書棚を覗くのだが、それは見た目ほど整然とはしていない。押入れや廊下の本棚にも同じくらいの本があり、目当ての本がなかなか見つからない。そういうこともあって、一見整理されてはいるが乱雑に置いてあるだけの本をしっかり整理してみた。ついでに400~600枚くらい?あるCDも。
その結果、マンネリであった僕の音楽生活に変化の兆しが・・。昔よく聴いたアート・ペッパーの50年台やミルト・ジャクソンの「オパスで・・」とか、とても新鮮に響いた。
本に至っては、もっとずっとエキサイティング!!。谷沢永一の本を目立つところに置いてみて、何となくペラペラ読んでみたくなり、「日本人とユダヤ人」に行きついて、これがとんでもない本であると分かった。「今更・・」という人はかなりの読書家だが、僕は読書家ではない。これについてはまた・・。
昔かじった「臨床心理学」(氏原寛・東山紘久)を再読。東山氏の書いた因幡の白兎のメンタリティについて今回は以前よりも突っ込んで考えることができた。これこそ今現在の僕の課題ではないのか。
行き詰まった時はともかくも「整理」することが大事だ。
僕の30代の頃の蹉跌を、今や知恵に変えることができるのか、という思いだ。
アドラー心理学を知ったからユングや河合隼雄はお呼びでない、というのはちょっと違うだろう。そんな単純ではない。どちらにも良い点と難しい点がある。そんなものをどこまで生かして、自分の知恵にできるか、ということだろう。
そういうわけで、河合隼雄の「昔話と日本人の心」を読んでいる。
日本人というのは、実に厄介なシロモノではないか、外国人とりわけ西洋人から見れば。興味を持つなら面白いのかも知れないが、僕は昔から日本人のメンタリティは好きではないし興味もなかった。殊に避けては通れない「世間」というモノについて、僕は躓き、翻弄されてきた。
今回はそれについて、少しじっくり考えてみたいと思っている。